tea-history -3- 海外輸出産品としてのお茶栽培

田中美里

ペリーの黒船来航をきっかけに、本格的な海外輸出が始まりました。

お茶の栽培には、どのような影響があったのでしょうか?

 

〜黒船来航〜

 

1853年はペリーの来航の年。

黒船来航がきっかけとなってお茶業界にも変化が訪れます。

 

黒船来航の翌年、日本は鎖国政策を転換し、1858年に日米修好通商条約を締結しました。

開港場となった横浜からは大量の茶が輸出されるようになります。

 

商品としての茶が横浜に集中し、流通経路が激変したのです。

横浜には外国の商館が設けられ、そこでの評価がそのまま商品の価値として用いられました。

茶生産者は、

外国人に高く評価される茶を作ろうと努力するようになっていきます。

 

 

1853年、黒船が来航した後、外国貿易が始まります。

日本からの輸出品として茶が注目され、栽培面積が拡大しました。

茶畑も他の農地と同様に、課税されるようになります。

 

戦国時代末期にさかのぼると、茶産地に対して課税が行われ、茶が現物納付されている記録があります。

江戸時代に入ると、茶畑が検地帳に記載されるようになりました。

これは、茶が農家経営にあたって重要とみなされるようになったことを示しています。

 

茶の木は、地面に根をしっかりと張るため、畑や屋敷地の隅に植えられて土地の境界の目印として活用されました。植えた茶は、自家消費用の茶として用いられただけでなく、余った分は売却して換金されました。

このような用途から、開墾地に茶を植えることが増えていきました。

 

茶畑を課税する際は、畑と同じように面積で表示されることが一般的でした。ただし、関東地域では「何々間」などと畝の長さを用いたり、茶株の数で表すなど、様々な表現が見られます。



 

コラム~お茶壺道中~

 

徳川幕府の支配によって、国が比較的安定していた江戸時代には、茶の分野でも家元制度が確立します。

 

家元制度とは、自らの流儀を継承していく仕組みのことです。

弟子には、技能の習得に応じて段階的に免許が与えられ、

さらに自分の弟子を持つことが許されます。

この制度は専門的な技能が必要な芸術分野に多く見られます。

 

他の芸術と同じように、茶の分野でも家元制度が一般的になった江戸時代には、

武家や上層町人が茶の湯を支えてゆくこととなりました。

 

茶の湯は、武家社会の儀礼や大名達のたしなみとして重要視されました。

特に、将軍家が使用する碾茶は宇治の茶師によって用意され、

名の通った茶壷に詰められて江戸まで運ばれました。

これが御茶壷道中と言われ、1632年より正式に始まったとされます。

 

御茶壷道中とは、

幕府が派遣する採茶使が、茶壷を持って東海道を通って京都へ向かい、5月末までに宇治に到着します。そして厳重な管理の下で、茶が茶つぼに詰められます。

到着後20日ほど経った頃、採茶使一行は中山道を通って江戸に行列を進めます。

道中の山梨県の谷村で、夏の間は茶壺を置いておき、3ヵ月後に再び行列を組んで江戸に戻りました。

 

この御茶壷道中の行列は、10万石の格式と言われ、幕府の権威を示すものでした。

 

宇治から運ばれてきた碾茶は、陰暦の10月に初めて茶壷から出し、臼で挽くと抹茶になります。

この時、茶室で夏に使用していた風炉(ふろ)から炉に切り替えることを、「日切り」と言います。

 

茶の集まりに使用される茶は、南北朝時代には京都栂尾の茶がよく用いられました。

しかし、

室町時代になると宇治茶が急成長し、

江戸時代には宇治が碾茶生産のほとんどを占めるようになったと言います。

 

 

なぜ、宇治で碾茶の生産が発達したのでしょうか?

 

硼茶は、

下の写真のように、茶園によしずや蓆(むしろ)などで覆いをして、光を遮る方法で生産されます。

遮光することで、葉が柔らかくて甘味と旨味が強い茶ができるのです。

ある説によれば、茶園に覆いをする技術は、宇治だけに設置が許されたとされています。

このようにして、宇治では独占的に碾茶が栽培されるようになりました。

 

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〜江戸時代の茶の格付け〜

 

生産された碾茶は、茶師と呼ばれる特権茶商によって集められました。

格式を誇った茶として、秀吉に愛用された上林家の茶があります。



茶の格式は、どのように区別されていたのでしょうか?

室町時代、茶は極上、別儀、ソヽリなどの言い方で品質が表現されていました。

江戸時代に入ってから、茶銘で品質を表すようになりました。

 

茶銘は、

宇治茶の茶師が自分の農園の茶を区別するためにつけていた記号に由来します。

後に、それぞれの宗家ごとに茶銘をつけるようになりました。

主な茶銘に、初昔、後昔、鷹爪などがあり、茶銘によって宇治茶独自の評価が確立されました。



江戸時代には、大名も茶人として名を残しました。

 

松江藩主の松平不昧(まつだいらふまい)、幕末期には彦根藩主の井伊直弼など、数々の有名な大名がいます。それぞれの城下町では茶の湯が流行し、茶会にふさわしい菓子などが作られるなど、江戸時代には現在につながる伝統文化が形成されていったと言えます。

 

また、両千家は、江戸時代の茶の湯の立て直しを図るために禅の修行に倣って茶の湯の七事式(しちじしき)という作法を定めました。

その一つ、茶歌舞伎は、南北朝時代に流行した闘茶の名残とされます。茶銘を隠した数種類の茶を飲み分け、全部当てた者がその記録を得るというものでした。

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tea history-2-江戸時代のお茶文化

田中美里

江戸文化の茶文化と栽培

 前回は、茶の湯の誕生と庶民の茶を、南北朝時代から戦国時代にかけて見てきました。

今回は、江戸時代以降の茶の広がりを解説していきます。

 

〜江戸時代〜 

初めに江戸時代の茶文化の流れを大まかに説明します。

江戸時代に入ると城下町が発展するに従って、都市で暮らす人が増加しました。

すると城下町ごとに茶の需要が生まれます。

 

特に、江戸は茶の大消費地でした。

当時の政治の中心で、多くの武士や様々な職種の人々が全国から移住してきました。

江戸での需要に応えて、各地に茶産地ができ、全国的な流通網も発展しました。

関東周辺の産地だけでなく駿河遠州、さらには宇治からも茶が集まりました。

広い地域から江戸に集まってきた茶は、茶問屋を通じて庶民に販売されました。

 

また、主要な城下町には、茶町という地名が見られるようになります。

 

 茶町 には、2つの意味があるとされます。

①茶を一般に商う商店がある地区

②茶問屋が集中している地区

 

明治時代以降、廃藩置県を始めとする地区再編によって、茶町は地名から姿を消してしまいました。

現在では、奈良、鳥取、島根、静岡県に、茶町という地名が残っています。

 

 

 

江戸時代における茶栽培の拡大

~商品作物として、東北・北陸地方にまで栽培地域が拡大~

 

江戸時代中頃には東北、北陸地方まで茶栽培が拡大します。

この茶栽培は商品作物として、すなわち市場で売買して換金するために、栽培されました。

近代的な農業の発達以前の農業の書物、農書で茶の栽培が推奨されたことも、茶の栽培を後押ししました。

 

関東以西では茶を自宅の周辺で栽培し、自家製の茶を利用することができました。

しかし、東北地方などでは、茶が自生することができませんでした。

茶が栽培できない地域では、茶を飲む際には、商品として茶を購入する必要がありました。

そのため、近代になっても、食事の際に茶ではなく白湯を飲むという例が多く見られます。

 

江戸時代後半になると、茶の商品としての重要性が高まっていき、これまで茶栽培が行われていなかった北陸や東北地方でも、小規模な茶産地が形成されるようになりました。

現在、新潟県村上市茨城県大子町が経済的栽培の北限の茶と言われていますが、

さらに北に位置する秋田県能代市の檜山でも茶は作られていました。

檜山での製法からは、初期の宇治製法の名残を見ることができます。

 

また、太平洋側でも茶の栽培が広がっていきます。

海に近く比較的温暖な岩手県陸前高田市では、宇治から茶種が導入されました。

これが現在の「気紐茶」の始まりです。

 

こうした栽培の広がりを受けて、数多く出版された農書において、栽培から製茶に

いたる解説がなされるようになりました。

 

 

元禄時代における日本の農業水準を示したとされる農書に、宮崎安貞の『農業全書』があります。

文書中には、抹茶、番茶など何種類もの製茶法が記されています。

 

他にも、大蔵永吊の『広益国産考』(1859)には、各種の茶の製法が書かれています。

地方ごとに篤農家(熱心で研究的な農業者)が著した農書においても、茶は重要産品として扱われています。






江戸時代の庶民の生活とお茶

~生活にお茶が深く浸透。番茶や代用茶が愛される~

 

当時の庶民は、茶問屋を通じて販売された茶、あるいは自家製の茶を飲んでいました。

同時に、各地では代用茶とも呼ばれる、茶のような飲み物が飲まれていました。

代用茶とは、カワラケツメイや藤の葉っぱを茶と同じように乾燥させて煮出して飲むものです。

 

代用茶は、必ずしも茶が入手できないために代わりに飲んだとは限りませんでした。

本来の茶の代用にとどまらず、茶とは異なった味わいを求める人にも飲まれました。

「茶」という言葉は、抹茶や煎茶など茶そのものだけでなく、嗜好飲料としての意味も持つと言えそうです。

 

 

当時、庶民の生活はどのようなものだったのでしょうか。

 

江戸幕府が出した茶に関する法令の中で最も有名なのが、慶安の御触書です。この法令では、農民に対して贅沢を禁じ、農業に励むことを求めました

それだけではなく、酒や茶を買うことを禁じ、夫婦共に農業や機織りに精を出すよう書かれています。

 

法令の一節に、

 

「みめかたちよき女房なりとも夫のことをおろかに存、

大茶をのみ物まいり遊山すきする女房を離別すべし」

 

とあります。

大茶とは、女性たちが寄り集まって茶を飲みながら、たわいもない会話をすることです。

 

慶安の御触書は農民に対する禁令なので、ここでの茶は宇治などで作られた抹茶ではなく、ありきたりの番茶を指すと考えられます。

茶が庶民まで普及していることに加え、

茶が女性の集まりにおいて重要な役割を果たしていたことが分かります。

 

茶は文学にも登場します。

松尾芭蕉の一句を紹介します。東海道島田宿(静岡県島田市)で大井川の川留めにあったときに詠んだものです。

 

駿河路や花橘も茶の匂ひ

 

「香りの強い花橘さえ、茶産地である駿河国では茶の匂いにかわってしまうほどだ」という意味です。

茶が身近な言葉になるにつれて、茶に関わる様々な諺が生まれました。

また、川柳などにも茶を織り込んだ句が数多く作られるようになりました。

今でも、「鬼も十八、番茶も出花」とか「茶腹もいっとき」「お茶をひく」「茶にする」などが日常的に使われています。

 

他にも、茶は儀礼にも用いられます。

各地で、冠婚葬祭など儀礼の場で茶を贈答する風習が見られます。

 

九州、新潟・福島両県の一部では、結納や婚礼に際して婿方から嫁方に茶を贈る習慣があります。

茶はしっかり根を張り、植え替えしにくいため、一旦嫁いだら末永くその家に居つくようにという意味だとされます。

 

しかし、婚姻の時に茶を贈答する民俗は、中国や東南アジアの一部にも見られるため、他にも理由がありそうです。

 

また葬儀にも茶は深く関わっていて、仏前に供える茶湯や、棺に茶葉を入れる風習などがあります。

このように、庶民の日常生活と茶は深く結びついています




コラム:文政の茶一件

~流通を独占した茶問屋をめぐる訴訟~

 

城下町が発展するに従って、都市で暮らす人が増加すると、城下町ごとに茶の需要が生まれます。

その需要に応えて各地に茶産地ができ、全国的な流通網も発展しました。

 

また、庶民の茶の消費量が増えるにつれて、江戸では茶問屋の組合が結成されました。

江戸の茶問屋は、江戸幕府に運上金(税の一種)を納める代わりに流通を独占する特権を認められていました。

独占権を利用して、地方で集荷する茶問屋と結び付き、生産者の茶を安く買い叩くようになりました。

 

これに対して、茶産地は自由な取引を望んでいたため、軋轢を生むこととなります。



有名な訴訟に、文政の茶一件があります。

 

文政7年(1824)、遠江駿河(現在の静岡県)の113ヵ村の生産者たちは、

江戸の問屋と直結していた駿府(現在の静岡市)などの茶問屋を横暴であるとして幕府に訴えました。

 

静岡だけでなく、関西の綿作地帯でも大規模な訴訟が起こされています。

これは、茶が生活に密着した商品として、

江戸時代の流通構造の一環に組み込まれてきたことを示しています。

 

この時期、江戸日本橋の茶商である山本屋が大きな役割を果たしました。

文政茶一件などの事態を避けるためには、茶商自ら流通の主導権を握る必要があると考えたと言われています。

地方の篤農家に技術指導を行うと同時に、各地に宇治製法を導入しました。

こうして、進んで高級茶の生産を広めていったのです。

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tea-history -1- 茶の湯の誕生〜庶民の茶 / 南北朝時代~戦国時代-

田中美里

普段何気なく飲んでいるお茶の歴史について紐解いていきます。
茶の湯の誕生、南北朝時代の茶の歴史について振り返ります。

 

南北朝時代

茶の湯の誕生

 南北朝時代には、日本各地では大名たちが激しい勢力争いを繰り広げていました。農村においても、農民の独立しようとする動きが高まってきます。集団で物事を決めたり、連歌のように雰囲気を共有しながら創作をする活動が流行していました。

 

 こうした流れを受けて、「闘茶」や「茶寄合」と呼ばれるゲームが人気を高めました。知り合いを招待して豪華な懸賞を用意し、茶を飲み比べて種類を当てるものです。茶寄合の前後には豪華な宴が開かれ、会場には中国渡来の優れた絵画や工芸品が展示されました。

 

 派手な風潮を表す言葉に「婆娑羅」があり、下克上の時代を反映した独自の美意識に基づくものです。

茶は単なる飲み物ではなく、集団で何かを行う際の楽しみとなり、これが茶の湯の誕生につながります。

 中国の影響を受けた婆娑羅の特徴に、茶を飲む際に椅子を用いることが挙げられますが、新しい建築様式である書院では、座敷に座る様式が広まっていきました。

 

 他にも、畳・明かり障子・床の間・違い棚といった茶室に見られる建築要素が見られるようになります。また、書院に飾られる品々は、豪華絢爛の雰囲気とは違い、洗練されたものになっていきました。

 

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引用先URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/茶室

茶文化の広まり

 中世になると強力な守護大名たちは、貴族や寺社の私有地であった荘園の支配権を奪うようになっていきました。しかし、畿内では寺社の勢力が強く、荘園の支配権を握っていました。

 寺社による支配の様子を示す記録によると、荘園の畔畔で茶を栽培したり、茶の現物を年貢として徴収していました。さらに、人をもてなすときにも茶が用いられ、会見時の儀礼として茶を飲む風習が広まっていました。

 他にも、有名な寺社に多くの人が参詣する様子を描いた絵画の中に門前の茶屋が描かれていて、茶を提供している様子が読み取れます。抹茶を飲む風習は上流階級に浸透していきました。

 抹茶を飲む習慣は、庶民にも広がります。当時、現在のような製茶法はまだ発達していなかったため、茶の生葉を蒸して乾燥させるという簡易な方法が大半でした。自家製の茶を石臼で挽き、手製の茶筅で茶碗に溶いて飲んでいたものと見られます。

 

今まで上流階級のものであった抹茶が、庶民にも身近になったことで流行しました。

 

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茶の湯の発展

  茶の湯の重要な要素の一つに、精神性があります。

 茶道の祖とされる「村田珠光(1422-1502)」は、茶湯に禅の思想を加えました。

珠光が言った言葉、

「月も雲間のなきは嫌にて候」

は、完璧さだけが良いのではないという精神を表していて、茶の湯の本質となるものです。

 珠光は茶室にも変化をもたらしました。四畳半で装飾を簡素化した茶室は、少人数で親しみを深め、深い精神的関係を持つ場となります。

 精神的意味の深い茶の湯は、政治的権力に屈しない堺の町衆に広がります。町衆は街の騒々しさとは無縁の茶室でひとときを過ごし、静かな雰囲気を楽しみました。

 

 茶の湯に打ち込む人々は、茶道具や茶室などへの審美眼を身に付け、「数寄者」と呼ばれました。茶の湯を大成したことで知られる千利休(千宗易, 1522-1591)も、堺の出身です。

 

 利休は信長に仕え、茶会を支える役目、茶頭の一人になります。当時、織田信長が堺の町衆を屈服させて、多くの名物茶道具を集めていました。

 

 茶道具は信長にとってどのような意味を持っていたのでしょうか。この頃、茶の湯は政治と強く結びついた儀礼となってゆきました。名物と呼ばれる由緒ある茶道具は、城一つ分に相当する評価を得ることもあったといいます。茶の嗜みが精神的な深みを持つだけでなく、茶の道具は権威の象徴であったのです。

 

 戦国時代の地方の城跡から茶臼が出土することがあり、地方にも茶の湯が広まっていたことが窺えます。

 

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侘び茶の誕生

 1582年に本能寺の変で信長が亡くなった後、豊臣秀吉が政権を握ります。秀吉は引き続き利休に茶頭の役目を与え、秀吉の出世につれて利休の地位も高くなりました。利休に対して、諸大名も頭が上がらないほどだったといいます。

 

 秀吉の茶の湯好きを示すエピソードに、北野の大茶会があります。

 

 1587年、京都に高札が立てられました。そこには、

 

「北野(神)社の森において10月1日から10日間にわたって大茶の湯を開催する。茶の湯に関心のある者は身分を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、あるいは茶は抹茶でなくても焦がしでも構わないから茶の湯を始めること、たとえ外国人であっても数寄を心がける者は参加すべし」

 

と書かれていました。豪華で大胆な秀吉の様子が読み取れます。

 また、秀吉は黄金の茶室を建てさせました。三畳間の柱は全て金貼りで、茶道具まで金だったそうです。

 一方、利休は禅の実践なしに茶の湯は味わえないと考え、質素な形式を取り入れました。茶の湯に対する考えにおいて秀吉と相容れず、1591年には切腹を命じられます。

 

 国内を統一した秀吉は、文禄・慶長の役、すなわち朝鮮半島に大軍を送ります。秀吉自身は九州に城を構えて軍を激励しましたが、戦いの最中に、黄金の茶室を用意して茶を楽しんだと言われています。この出兵は朝鮮側の激しい抵抗と秀吉の死によって失敗に終わりましたが、朝鮮出兵の際に陶工が日本に連れてこられました。朝鮮の優れた技術が九州に定着し、伊万里焼などその影響は現在まで残っています。

 

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引用先URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休

利休の死後

 利休の死後、利休の孫である宗旦の3人の息子によって、千家は表千家裏千家武者小路千家の三流派に分かれます。裏千家今日庵表千家は不審庵、武者小路家は官休庵と呼ばれる代表的な茶室を持っていて、各流派の象徴となっています。

 また、利休の弟子たちも、利休の思想を継承しました。利休の高弟には、キリシタン大名として知られる高山右近織部燈籠で有名な古田織部(1544-1615)らが挙げられます。織部徳川幕府に重用され、武家風の茶道を発展させました。織部の後を継いだ小堀遠州(1579-1647)は、徳川将軍家に茶道を教えたことで知られ、茶会を通して多くの大名らと交わったといいます。また、作事奉行として建築や造園にも携わりました。

 

室町時代

 

庶民の茶

 室町時代から戦国時代にかけて、能楽と共に狂言が発展します。日常の庶民的な生活を題材とする能には、茶も登場しました。茶といっても抹茶に限らず、天日干しの番茶といった庶民の日常の茶を指します。他の文献を紐解くと、庶民向けの茶は煮出して飲む煎じた番茶であると推定されます。庶民の間でも茶が流行していたとはいえ、その飲み方は上流階級と異なっていたようです。

 

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【tea history】-0- 茶文化の始まり〜鎌倉時代〜

田中美里

普段何気なく飲んでいるお茶ですが、鎌倉時代まで遡る長い歴史があるのをご存知ですか?

茶文化は歴史上の有名な人物たちと深く関わっているのです。

 

茶文化の流れ

 日本に茶文化をもたらしたのは栄西と言われています。鎌倉時代に入り、僧侶を中心に中国との文化交流が盛んになりました。その頃、禅をはじめとする新仏教が中国から日本へ伝わります。

 栄西が「抹茶」という新たな茶の飲み方をもたらすと、禅の影響から茶文化は急速に広まってゆきました。南北朝時代から室町時代にかけて、昔からの風習にとらわれない新たな文化が次々に誕生します。

 当時の最先端の文化である「茶の湯」は、日本の伝統的な美意識と禅の思想が合体して生まれたのです。時代が進むと農村で茶の生産が盛んになり、庶民の間にも茶が浸透していきました。

 

茶文化が発展する流れを詳しく解説していきます。

 

鎌倉時代

 

茶文化の幕開け

 鎌倉時代に入ると、宋(960-1279年)から日本に新しい文化が入ってきました。伝えたのは、宋で仏教を学んでいた僧たちです。中でも、臨済宗を開いたとして名高い栄西(1141-1215)が、宋から帰国して日本最初の茶園を作りました。日本で最も由緒正しいとされる「本茶」は、栄西が京都栂尾高山寺の明恵上人に贈呈した茶の種に由来するものです。

 和束茶の始まりは、海住山寺の高僧「慈心上人」が、高山寺明恵上人から茶の種を譲り受け、鷲峰山の山麓に植えたことが始まりと言われています。

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引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/高山寺

茶の効能と飲み方

 お茶が健康に良いことは、古くから知られていました。鎌倉幕府の公式記録、『吾妻鏡』には栄西が将軍に茶を勧めた記録が残されています。ある日、三代目将軍実朝が二日酔いで苦しんでいたところ、栄西がお茶を飲むよう勧めました。実朝がお茶を飲むと、すぐに気分が良くなったそうです。

 同時期に茶について記した書物に、『喫茶養生記』があります。栄西によって書かれ、日本の茶の聖典とされています。

書物は「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山野之を生ずれば、其の地神霊なり」と始まり、

前半部分にはお茶が健康や長寿に効くこと、お茶の木が生える土地は神聖な場所であることや茶の製法が記されています。

 

 当時の書物からは、お茶の飲み方も明らかになってきます。具体的な飲み方は書かれていませんが、現在の抹茶に似た方法でお茶が飲まれたと推定されています。

抹茶の飲み方は、栄西が学んでいた宋で流行していたものです。日本は茶文化において中国から大きな影響を受けていますが、中国では抹茶としてのお茶の飲み方は廃れてしまいました。

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禅宗の影響

 お茶の効果は健康だけでなく、頭をすっきりさせる効果があります。

 昼夜厳しい修行を行う禅宗の寺院では、茶の持つ覚醒効果が重宝されました。中国の禅寺で茶が儀式に用いられていたことに倣って、日本の禅寺でも茶が儀礼に取り入れられました。

清規と呼ばれる寺内の規則に、茶を飲む儀礼が含まれています。禅の中で茶が用いられるにつれて、茶の栽培は寺院を中心に関東地域まで拡大してゆきました。

 

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 ここまで、お茶が禅寺で広まった流れを見てきましたが、農民は茶をどのように捉えていたのでしょうか。

 

 鎌倉時代に成立した『沙石集』には、茶をめぐる農民の姿が描かれています。

 僧が茶を飲んでいたところ、牛飼いが来て、茶を自分にも頂けないかと尋ねました。僧は牛飼いに茶の素晴らしさを語り、

消化が良くなること、眠気を覚ますこと、女性をみてもその気がなくなるという三つの効用を挙げました。

 牛飼いは、すぐに空腹になったり、夜眠れなくなると仕事にならず、厳しい暮らしの中での唯一の楽しみが失われてしまうと答えたといいます。

 

 茶文化と関わりの深い禅宗は、当時の武士たちにも信仰されていました。茶は、武家社会においても重んじられたのです。神奈川県横浜市金沢文庫は、鎌倉幕府執権の北条氏の一族である金沢氏が、学問の拠点として称名寺に設けたことで知られています。

 金沢文庫に残っている古文書からは、金沢氏を始めとする人々が、京都栂尾の茶を熱烈に求めていたことが分かっています。

 当時、鎌倉でも茶の栽培は行われていて、当時の史料では地元の茶を当所の茶や山茶などと呼んでいます。栄西の手でもたらされた、最も由緒あるとされる茶は他の茶と明確に区別され、特に大切に扱われたことが読み取れます。

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