江戸時代には、抹茶以外の茶の飲み方も広まっていきます。
特に煎茶を好んだ文人たちは、煎茶の広がりの先駆けと言えます。
また、18世紀中頃に宇治の永谷宗円が蒸し製煎茶の製法を確立しました。こうした動きを受けて、急須を用いる茶が徐々に普及していきます。
商品としての茶には、高級茶も見られます。
幕末期には、硯茶栽培と蒸し製煎茶の技術を用いて、玉露が生産されるようになりました。
先ほど、茶の栽培は換金を目的に行われていたと書きましたが、自家消費も行われていました。
自家消費用の茶は、番茶として飲まれていました。伝統的な製法で作られており、また他の食品と組み合わせることもあったため、様々な形態の番茶が見られます。
〜庶民に愛される茶:番茶〜
現在、番茶は下級茶の代名詞と捉えられています。
しかし、戦国時代にはすでに抹茶とは異なる庶民の日常茶の意味でも使われていました。
番茶の製法は地域によって実に多様で、今も各地で見られる番茶は、江戸時代から続いているものと思われます。
数ある番茶の種類から、いくつかを紹介します。
(1)寒茶
現在の常識とは異なり、寒中に作られます。
葉がついたままの枝を蒸し、そのまま自然乾燥させただけのもので、やかんで煮出して飲用します。愛知県豊田市の足助(あすけ)で作られるものが有名ですが、山陰や四国でも類似した茶が見られます。
(2)刈り番茶
秋口に葉がついたまま枝を刈り、細断して軽く茄でてから鍋で炒り、筵(むしろ)の上で揉んでから天日で乾燥させたものです。刈り番茶は、全国で広く見られました。
(3)美作(みまさか)番茶
煮出した茶葉を筵の上に広げ、天日で乾燥させながら茶の煮汁を何回もかけて表面に艶を出します。その名の通り、岡山県で作られます。
(4)阿波番茶
夏の盛りに全葉を扱きとり、釜で煮てから揉捻します。その後、大きな桶に詰め込んで重石を載せ、一週間ほど漬け込むみます。さらに、天日で乾燥させ、普通の煎茶と同じく土瓶などで淹れます。徳島県の上勝町や相生町で作られます。
(5)土佐碁石茶
蒸した茶葉を積んでカビをつけ、それをさらに桶につめて発酵させます。その後、4~5 crn角に切断して、天日で干します。ほとんどは瀬戸内海の島嶼に運ばれて、茶粥の材料になりました。高知県の大豊町一帯で作られてきたものです。
最後の2つ、阿波番茶と碁石茶は、東南アジアに見られるミアンなどの漬物茶と同じ製法です。
但し、日本にはこの茶を食べたという記録はなく、現在のところ両者に関連があるかははっきりしていません。
〜当時の一般的な茶〜
江戸時代前半、最も一般的であった茶が、釜炒り茶です。
釜炒り茶は中国の明時代に始まり、大きな鍋でサラサラに炒り上げる製法をとります。
香り高さが特徴の釜炒り茶の普及によって、
中国からは伝統的な蒸し製の茶は消えていきました。
抹茶法が日本にのみ残り、中国では消えてしまったのは、この釜炒り茶の普及が理由です。
この釜炒り茶が日本に入ってきたのは、戦国時代末期です。
真偽の程は定かではありませんが、
①加藤清正の朝鮮出兵の時に日本に伝わった、
②佐賀県嬉野に来た陶エが伝えた、
とされます。
前者(①)が熊本県を中心とする青柳茶、後者(②)が嬉野茶の始まりとされます。
①の青柳製は土間のかまどに、豆も煮たりする汎用の大きな平釜をセットしたもので、
②の嬉野製は、釜を斜めに据えた製茶専用の力鼈とを使います。
後に、①の青柳製の製法が全国に普及し、自家用の茶を鍋で炒る農家が急速に増えたと推定されます。
釜炒り茶を地域の産物として流通させるには、鉄製の大釜、すなわち大鍋が不可欠でした。
商品として釜炒り茶が発展した青柳や嬉野では、鉄鍋が普及していたと推測されます。
この釜炒り製法を用いた、商品として上等の茶は唐茶とも呼ばれました。唐茶について次で詳しく見ていきます。
〜文人と煎茶〜
江戸時代、文人にも茶は愛されていました。
江戸時代初め、黄檗宗を伝えた隠元(1592-1673)が、日本に新たな茶の飲み方をもたらしました。
隠元が飲んだ茶は、中国渡来の唐茶と呼ばれる釜炒り茶であったと推定されています。
万福寺にある隠元のもたらした茶器などが、中国福建省辺りで盛んになっていた工夫余(コンフーチャー)の用具に類似しているためです。
唐茶とは、
初期には文字通り長崎を通じて中国から輸入されたものだったと考えられています。
次第に釜炒り製法が普及するにつれて、国産の茶で釜炒り茶のことを指して唐茶とも言うようになりました。
唐茶の特徴として、淹れた時に澄んでいることが挙げられます。
抹茶が濁っているのに対して、唐茶が澄んでいたため、文人に好まれたと言われます。
江戸の文人たちが唐茶を好んだ理由は、茶が濁っていないことだけには留まりません。
唐の時代の、人物を紹介します。
慮同(ろどう:鷹仝)は茶を愛し、清廉潔白、無為自然の生き方を貫いたことで知られています。
慮同は、有名な新茶を贈られ、一杯目から次第に気分が高揚して七杯目は遂に飲むことができなくなった時、次の有名な一節が詠まれました。
「唯覚ゆ、両脇に習習として清風の生ずるを」
この清風は、日本の煎茶に求められたイメージで、
「清風の茶」は、江戸時代の文人にとってあこがれの世界でした。
文人たちは、唐茶を味わいながら詩作にふけり、芸術を語っていたのでした。
このような文人達の茶の世界を広く世間に知らせることになったのが、
売茶翁として知られる高遊外(1675-1763)です。
高遊外は、凝り固まった抹茶の世界への批判という意味も込めて、日本に煎茶を普及させました。
京の市中で
「代金はくれ次第、ただでも結構」
といって自ら茶を売り歩きました。売茶翁は、現在の中国でも使用されている茶壷(チャーフー:急須)を使っていました。
同時期に、大枝流方が初めての煎茶書とされる『屑碕案藷』(『煎茶仕用集』)を著し、
続いて『雨月物語』などで知られる上田秋成が『清風瑣言』を書きました。
『清風瑣言』には、茶の歴史、製法や飲用法、茶具まで、煎茶について広く記されています。
ただし、江戸時代初期に使用された煎茶という言葉は、現在一般的に指す煎茶ではないと推定されています。
江戸時代の煎茶は、「煎じ茶」と読み、
硼茶と同じような製法で生葉を蒸し、揉まずに焙炉(ばいろ)で乾燥させた葉茶
と考えられています。
〜蒸し製煎茶の開発〜
江戸の文人たちを始めとして、美しく澄んだ茶を求められた当時、新しい煎茶の製法が完成されました。
1738年、宇治湯屋谷(京都府綴喜郡宇治田原町)の永谷三之丞(宗円)が、
従来の碾茶の製法と番茶の製法のそれぞれの良さを
組み合わせた製法です。
その製法とは、
良質の芽を摘み、蒸して殺青します。次に和紙を貼った焙炉の上で揉みながら乾燥させます。
新たな煎茶の製法の特徴に、抹茶のような粉末ではなく、急須に入れた茶葉に湯を注ぐだけで成分を拍出できることが挙げられます。
これは淹茶(えんちゃ)と呼ばれ、淹して飲む茶を意味します。
淹茶に欠かせない急須(急焼ともいう)は、
元々は中国で使用された茶壷が日本の煎茶に使われるようになったものです。
代表的なものとして、中国江蘇省の宜興で作られる朱泥の陶器があります。
また、取手の位置によって、後手・上手・横手の3つに分類されます。
取手も注ぎ口もなく、蓋で茶葉を押さえ片口から注ぐ急須は、日本で考案されたと考えられています。
永谷宗円は、自身が生み出した新たな煎茶を、江戸日本橋の山本屋(現在の山本山)に持ち込んで、高評価を得ました。
山本屋は、この茶を販売することで大きな利益を見込むことができたためです。
こうして、最初から高付加価値をもった商品としての煎茶となったのです。
永谷宗円が完成させた製法は、次第に各地に広まっていきましたが、
まだ釜炒り茶が一般的な時代が続きます。
現在では、
宗円の製法を発展させた煎茶が、日本茶の大部分を占めています。
茶業関係者は永谷宗円の業績を讃え、生家に近い神社に「茶宗明神」として祀っていることからも、宗円が茶の発展に大きく貢献したことが分かります。
〜玉露の開発〜
江戸時代に開発された茶は、煎茶だけに留まりません。
宇治においては、さらなる高級茶の開発が進み、天保時代になって最高級品としての玉露の生産が始まりました。
玉露の創始者には諸説ありますが、
一説には、
江戸の茶商山本屋の六代目嘉兵衛が、宇治の碾茶製造場で蒸葉を手でかき混ぜたところ、
小さな団子状になってしまいました。
飲んでみると香味と色沢に優れていたので、玉露と命名します。江戸で発売すると、この上ない人気であったと言います。
別の説では、
煎茶宗匠の小川可進が、宇治の上阪清ーと共に開発した、
宇治の松林長兵衛が、焙炉場を火事で失い、苦し紛れに他家の煎茶焙炉で製造した茶を玉露と名付けた、
とも言われています。
このような新たな茶の開発が進んだ背景に、大名たちの経済的困窮があります。
当時、碾茶を購入していた大名達が経済的に逼迫し、茶の湯の存続が危うくなりました。
なんとか新しい需要を掘り起こそうとした生産者は、
碾茶とほとんど同じ製法を用いて、超高級品としての新しい煎茶を開発したと考えられます。
玉露の開発は、一人の人物によってなされたというより、時代の流れを受けて開発が進んだ結果なのです。
〜外国人から見た日本の茶〜
日本の茶は、外国人にも注目されました。
鎖国していた期間中、唯一海外に開かれていた長崎に設置されたオランダ商館には、医師が駐在していました。
そのうちの一人、元禄年間に勤務したドイツ人医師ケンペルは、
1712年にオランダで著書『日本誌』を出版しました。
そこには、日本の茶について植物としての特性が挿絵入りで詳しく紹介され、
当時の製茶法も記されています。
その製茶法とは、
生葉を鍋で炒り、縄を編んだネコダという筵の上で揉み上げ、天日乾燥させるというものでした。
これは今も各地の番茶製法に見られます。
シーボルトも、オランダ商館の医師でした。
1823年に来日すると茶に強い関心を示し、帰国後に『日本』と題した大著を著しました。
そこでは、茶の植物学的研究や釜炒り茶の製法の図解などをまとめ、日本の茶を海外に広く
紹介しています。
また、シーボルトが持ち帰った茶のサンプルは、現在もオランダなどの博物館に
所蔵されており、極めて貴重な資料となっています。
シーボルトのはたらきをきっかけに、
江戸時代初頭、オランダを通じて日本の茶が海外に輸出され、
ヨーロッパに日本の茶が知られることとなりました。