tea history -6- 日本茶の歴史:明治時代のお茶栽培と製茶法
前回の記事では、開国後、国を揚げて茶の生産・販売を行った様子を解説しました。
今回は、明治時代を中心に、茶の栽培と製茶法について詳しく説明していきます。
〜育種技術の開発〜
良い茶の木を繁殖させるには?
国をあげて茶業を活性化すると同時に、政府は茶業そのものに対する研究・指導にも力を入れていました。
1896年には、茶業の研究の拠点として製茶試験所(商務省農務局)が設置されます。
各産地でも独自の研究機関が設けられ、地域における茶業振興に大きな役割を果たしてきました。
茶の栽培に貢献し、有名品種を開発した人物を1人、紹介します。
静岡県出身の杉山彦三郎(1857-1941)です。
杉山は、良質の新芽を求めて茶園を探索している間に、
チャにも早・ 中・晩生の性質があることに気がつきます。
また、早・ 中・晩生の性質が、
直接収益につながる収量や製品の質に大きな違いを生むことに着目しました。
杉山は、良い収益を上げる性質を残したまま、茶の木を繁殖させる方法を研究します。
しかし、種子から発芽したての状態で子孫を増やすと、茶の木のの性質が失われてしまいます。
そこで挿し木や取り木という方法を研究し、開発されたのが圧条取り木法なのです。
この繁殖方法を用いて、各地の茶園から有望と思われ茶を収集しては実験茶園で育てました。
優良品種を選抜しようと試みていた時、
ヤブの北側で育っていた茶樹に優れた性質があることを発見し、
藪北(やぶきた)と命名しました。
下の写真が藪北です。
杉山の賢明な研究の結果、藪北は味や収量、新芽の伸び具合が優れていることが明らかになりました。
これが現在の「やぶきた」で、
総合的には現在でもこれに勝る品種はない
と言われています。
発見された新品種、藪北は茶業試験場などによって苗の配布が行われました。
しかし、茶園の改植によって収入が減少するため、なかなか普及しませんでした。
戦後になってようやく、藪北の真価が高く評価され、現在のように茶園の大部分を占めるようになりました。
〜手揉み製茶から機械製茶ヘ〜
江戸時代に開発された製法が広まり、さらなる製茶法が発展
江戸時代に美しく澄んだ茶を求める動きに呼応して開発されたのが蒸し製煎茶です。
1738年、宇治湯屋谷(京都府綴喜郡宇治田原町)の永谷三之丞(宗円)が、
従来の碾茶の製法と番茶の製法のそれぞれの良さを組み合わせて生み出しました。
蒸し製煎茶が開発された後も、江戸時代は釜炒り茶が一般的でしたが、明治期に入って蒸し製の宇治製法の評価が高まっていきます。
それに伴って、蒸し製茶の製茶技術が各地に広まりました。
宇治や近江、伊勢の製茶職人が各地に招かれて技術指導を行ったのです。
しかし、同じ品種の茶であっても、地質や日照、摘採時期の違いによって
生葉の状態がかなり異なります。
こうした地域による茶葉の違いに応じて、各地で製法や手揉みの技術が発展していきます。
明治10年代になると、自らの工夫を加えた独自の製法が次々と完成されました。
「でんぐり」と呼ばれる、新たな独自の製法を一つ、紹介します。
焙炉の上で茶葉を両手で手挟み(たばさみ)、
交互にでんぐり返しながら効率よく揉んでいきます。
交互にでんぐり返すことから製法の名が付けられ、
新しい手揉みの製法の代名詞となりました。
手揉みの技術も、茶葉の状態によって、各地で違っていました。
技術は職人から弟子へと伝えられ、やがて流派が形成されていきました。
手揉み技術が確立されていく一方で、製茶の機械化に向けて努力が進められていきます。
〜製茶の機械化〜
熟練した茶師の手遣いを機械に置き換えようと、製茶の機械化が取り組まれました。
高林謙三(1832-1901)は、製茶の機械化に取り組み、
自ら発明した機械によって日本の特許第2号を取得しました。
埼玉県の医師であった高林は、まず蒸し器の発明に成功し、
続いて1896年に粗揉機を完成させます。
この発明は静岡県の松下幸作に買い取られ、大量に生産されることとなりました。
機械化の取り組みは全国の茶産地にも及びます。
発明された機械を、実際にそれを使う人達が、近隣の鉄工場の主人と工夫しあいながら改良しました。
茶業組合においても、製茶機械の試験を重ねてゆきました。
こうした懸命な努力により、様々な工程に対応する機械が発明されました。
明治末年になると、蒸し機や粗揉機の段階から次第に機械が普及し始めます。
最も体力を要する前半部分は、蒸し機や粗揉機で行うようになり、
後半を精揉機が普及するまで手揉みで行っていました。
機械化のための動力には、石油発動機、電気モーターなどのほかに水車も利用されました。
以前は、小規模な茶部屋で行なわれてきた製茶作業が、
次第に共同茶工場の建設へと発展していきました。
機械化の動きは、碾茶生産の中心であった宇治においても見られます。
〜コラム:茶刈り鋏の普及と茶畑景観の変化〜
製茶工程が機械化されていった一方、茶摘みは、従来通りの手摘みの時代が続きました。
新茶の収穫は、短期間に集中的な労働を必要とするため、家内労働力だけでは人手が足りません。
江戸時代以前から、宇治の茶園には多くの出稼ぎ女性が来ていたほどです。
明治時代以降に茶生産量が増大すると、全国の茶産地で新茶の季節に労働力が必要になります。
平野部の水田地帯や海岸部から若い女性が集団で、山間地の茶農家に茶摘みの出稼ぎに出かけていました。
こうした習慣は近畿地方の綿摘み、関東地方の桑摘みなどと同様に、女性が広く世間と接する機会となったのです。
茶産業も、日本の様々な農業と共通する側面を持っていたと言えます。
やがて大正から昭和時代にかけて工業の近代化が進むと、
女性の働く場が増え、賃金も上昇します。
零細な茶農家が人件費の高騰に耐えられなくなったこともあり、
次第に茶刈り鋏が普及してゆきました。
茶刈り鋏の普及に合わせ、茶畑の景観は、株づくりから鋏が使いやすい整然とした畝仕立てへと変わっていったのです。