tea-history -3- 日本茶の歴史:海外輸出産品としてのお茶栽培
ペリーの黒船来航をきっかけに、本格的な海外輸出が始まりました。
お茶の栽培には、どのような影響があったのでしょうか?
〜黒船来航〜
1853年はペリーの来航の年。
黒船来航がきっかけとなってお茶業界にも変化が訪れます。
黒船来航の翌年、日本は鎖国政策を転換し、1858年に日米修好通商条約を締結しました。
開港場となった横浜からは大量の茶が輸出されるようになります。
商品としての茶が横浜に集中し、流通経路が激変したのです。
横浜には外国の商館が設けられ、そこでの評価がそのまま商品の価値として用いられました。
茶生産者は、
外国人に高く評価される茶を作ろうと努力するようになっていきます。
1853年、黒船が来航した後、外国貿易が始まります。
日本からの輸出品として茶が注目され、栽培面積が拡大しました。
茶畑も他の農地と同様に、課税されるようになります。
戦国時代末期にさかのぼると、茶産地に対して課税が行われ、茶が現物納付されている記録があります。
江戸時代に入ると、茶畑が検地帳に記載されるようになりました。
これは、茶が農家経営にあたって重要とみなされるようになったことを示しています。
茶の木は、地面に根をしっかりと張るため、畑や屋敷地の隅に植えられて土地の境界の目印として活用されました。植えた茶は、自家消費用の茶として用いられただけでなく、余った分は売却して換金されました。
このような用途から、開墾地に茶を植えることが増えていきました。
茶畑を課税する際は、畑と同じように面積で表示されることが一般的でした。ただし、関東地域では「何々間」などと畝の長さを用いたり、茶株の数で表すなど、様々な表現が見られます。
コラム~お茶壺道中~
徳川幕府の支配によって、国が比較的安定していた江戸時代には、茶の分野でも家元制度が確立します。
家元制度とは、自らの流儀を継承していく仕組みのことです。
弟子には、技能の習得に応じて段階的に免許が与えられ、
さらに自分の弟子を持つことが許されます。
この制度は専門的な技能が必要な芸術分野に多く見られます。
他の芸術と同じように、茶の分野でも家元制度が一般的になった江戸時代には、
茶の湯は、武家社会の儀礼や大名達のたしなみとして重要視されました。
特に、将軍家が使用する碾茶は宇治の茶師によって用意され、
名の通った茶壷に詰められて江戸まで運ばれました。
これが御茶壷道中と言われ、1632年より正式に始まったとされます。
御茶壷道中とは、
幕府が派遣する採茶使が、茶壷を持って東海道を通って京都へ向かい、5月末までに宇治に到着します。そして厳重な管理の下で、茶が茶つぼに詰められます。
到着後20日ほど経った頃、採茶使一行は中山道を通って江戸に行列を進めます。
道中の山梨県の谷村で、夏の間は茶壺を置いておき、3ヵ月後に再び行列を組んで江戸に戻りました。
この御茶壷道中の行列は、10万石の格式と言われ、幕府の権威を示すものでした。
宇治から運ばれてきた碾茶は、陰暦の10月に初めて茶壷から出し、臼で挽くと抹茶になります。
この時、茶室で夏に使用していた風炉(ふろ)から炉に切り替えることを、「日切り」と言います。
茶の集まりに使用される茶は、南北朝時代には京都栂尾の茶がよく用いられました。
しかし、
江戸時代には宇治が碾茶生産のほとんどを占めるようになったと言います。
なぜ、宇治で碾茶の生産が発達したのでしょうか?
硼茶は、
下の写真のように、茶園によしずや蓆(むしろ)などで覆いをして、光を遮る方法で生産されます。
遮光することで、葉が柔らかくて甘味と旨味が強い茶ができるのです。
ある説によれば、茶園に覆いをする技術は、宇治だけに設置が許されたとされています。
このようにして、宇治では独占的に碾茶が栽培されるようになりました。
〜江戸時代の茶の格付け〜
生産された碾茶は、茶師と呼ばれる特権茶商によって集められました。
格式を誇った茶として、秀吉に愛用された上林家の茶があります。
茶の格式は、どのように区別されていたのでしょうか?
室町時代、茶は極上、別儀、ソヽリなどの言い方で品質が表現されていました。
江戸時代に入ってから、茶銘で品質を表すようになりました。
茶銘は、
宇治茶の茶師が自分の農園の茶を区別するためにつけていた記号に由来します。
後に、それぞれの宗家ごとに茶銘をつけるようになりました。
主な茶銘に、初昔、後昔、鷹爪などがあり、茶銘によって宇治茶独自の評価が確立されました。
江戸時代には、大名も茶人として名を残しました。
松江藩主の松平不昧(まつだいらふまい)、幕末期には彦根藩主の井伊直弼など、数々の有名な大名がいます。それぞれの城下町では茶の湯が流行し、茶会にふさわしい菓子などが作られるなど、江戸時代には現在につながる伝統文化が形成されていったと言えます。
また、両千家は、江戸時代の茶の湯の立て直しを図るために禅の修行に倣って茶の湯の七事式(しちじしき)という作法を定めました。
その一つ、茶歌舞伎は、南北朝時代に流行した闘茶の名残とされます。茶銘を隠した数種類の茶を飲み分け、全部当てた者がその記録を得るというものでした。