tea-history -1- 日本茶の歴史:茶の湯の誕生〜庶民の茶 / 南北朝時代~戦国時代-
普段何気なく飲んでいるお茶の歴史について紐解いていきます。
茶の湯の誕生、南北朝時代の茶の歴史について振り返ります。
〜南北朝時代〜
茶の湯の誕生
南北朝時代には、日本各地では大名たちが激しい勢力争いを繰り広げていました。農村においても、農民の独立しようとする動きが高まってきます。集団で物事を決めたり、連歌のように雰囲気を共有しながら創作をする活動が流行していました。
こうした流れを受けて、「闘茶」や「茶寄合」と呼ばれるゲームが人気を高めました。知り合いを招待して豪華な懸賞を用意し、茶を飲み比べて種類を当てるものです。茶寄合の前後には豪華な宴が開かれ、会場には中国渡来の優れた絵画や工芸品が展示されました。
派手な風潮を表す言葉に「婆娑羅」があり、下克上の時代を反映した独自の美意識に基づくものです。
茶は単なる飲み物ではなく、集団で何かを行う際の楽しみとなり、これが茶の湯の誕生につながります。
中国の影響を受けた婆娑羅の特徴に、茶を飲む際に椅子を用いることが挙げられますが、新しい建築様式である書院では、座敷に座る様式が広まっていきました。
他にも、畳・明かり障子・床の間・違い棚といった茶室に見られる建築要素が見られるようになります。また、書院に飾られる品々は、豪華絢爛の雰囲気とは違い、洗練されたものになっていきました。
引用先URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/茶室
茶文化の広まり
中世になると強力な守護大名たちは、貴族や寺社の私有地であった荘園の支配権を奪うようになっていきました。しかし、畿内では寺社の勢力が強く、荘園の支配権を握っていました。
寺社による支配の様子を示す記録によると、荘園の畔畔で茶を栽培したり、茶の現物を年貢として徴収していました。さらに、人をもてなすときにも茶が用いられ、会見時の儀礼として茶を飲む風習が広まっていました。
他にも、有名な寺社に多くの人が参詣する様子を描いた絵画の中に門前の茶屋が描かれていて、茶を提供している様子が読み取れます。抹茶を飲む風習は上流階級に浸透していきました。
抹茶を飲む習慣は、庶民にも広がります。当時、現在のような製茶法はまだ発達していなかったため、茶の生葉を蒸して乾燥させるという簡易な方法が大半でした。自家製の茶を石臼で挽き、手製の茶筅で茶碗に溶いて飲んでいたものと見られます。
今まで上流階級のものであった抹茶が、庶民にも身近になったことで流行しました。
茶の湯の発展
茶の湯の重要な要素の一つに、精神性があります。
茶道の祖とされる「村田珠光(1422-1502)」は、茶湯に禅の思想を加えました。
珠光が言った言葉、
「月も雲間のなきは嫌にて候」
は、完璧さだけが良いのではないという精神を表していて、茶の湯の本質となるものです。
珠光は茶室にも変化をもたらしました。四畳半で装飾を簡素化した茶室は、少人数で親しみを深め、深い精神的関係を持つ場となります。
精神的意味の深い茶の湯は、政治的権力に屈しない堺の町衆に広がります。町衆は街の騒々しさとは無縁の茶室でひとときを過ごし、静かな雰囲気を楽しみました。
茶の湯に打ち込む人々は、茶道具や茶室などへの審美眼を身に付け、「数寄者」と呼ばれました。茶の湯を大成したことで知られる千利休(千宗易, 1522-1591)も、堺の出身です。
利休は信長に仕え、茶会を支える役目、茶頭の一人になります。当時、織田信長が堺の町衆を屈服させて、多くの名物茶道具を集めていました。
茶道具は信長にとってどのような意味を持っていたのでしょうか。この頃、茶の湯は政治と強く結びついた儀礼となってゆきました。名物と呼ばれる由緒ある茶道具は、城一つ分に相当する評価を得ることもあったといいます。茶の嗜みが精神的な深みを持つだけでなく、茶の道具は権威の象徴であったのです。
戦国時代の地方の城跡から茶臼が出土することがあり、地方にも茶の湯が広まっていたことが窺えます。
侘び茶の誕生
1582年に本能寺の変で信長が亡くなった後、豊臣秀吉が政権を握ります。秀吉は引き続き利休に茶頭の役目を与え、秀吉の出世につれて利休の地位も高くなりました。利休に対して、諸大名も頭が上がらないほどだったといいます。
秀吉の茶の湯好きを示すエピソードに、北野の大茶会があります。
1587年、京都に高札が立てられました。そこには、
「北野(神)社の森において10月1日から10日間にわたって大茶の湯を開催する。茶の湯に関心のある者は身分を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、あるいは茶は抹茶でなくても焦がしでも構わないから茶の湯を始めること、たとえ外国人であっても数寄を心がける者は参加すべし」
と書かれていました。豪華で大胆な秀吉の様子が読み取れます。
また、秀吉は黄金の茶室を建てさせました。三畳間の柱は全て金貼りで、茶道具まで金だったそうです。
一方、利休は禅の実践なしに茶の湯は味わえないと考え、質素な形式を取り入れました。茶の湯に対する考えにおいて秀吉と相容れず、1591年には切腹を命じられます。
国内を統一した秀吉は、文禄・慶長の役、すなわち朝鮮半島に大軍を送ります。秀吉自身は九州に城を構えて軍を激励しましたが、戦いの最中に、黄金の茶室を用意して茶を楽しんだと言われています。この出兵は朝鮮側の激しい抵抗と秀吉の死によって失敗に終わりましたが、朝鮮出兵の際に陶工が日本に連れてこられました。朝鮮の優れた技術が九州に定着し、伊万里焼などその影響は現在まで残っています。
引用先URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休
利休の死後
利休の死後、利休の孫である宗旦の3人の息子によって、千家は表千家、裏千家、武者小路千家の三流派に分かれます。裏千家は今日庵、表千家は不審庵、武者小路家は官休庵と呼ばれる代表的な茶室を持っていて、各流派の象徴となっています。
また、利休の弟子たちも、利休の思想を継承しました。利休の高弟には、キリシタン大名として知られる高山右近、織部燈籠で有名な古田織部(1544-1615)らが挙げられます。織部は徳川幕府に重用され、武家風の茶道を発展させました。織部の後を継いだ小堀遠州(1579-1647)は、徳川将軍家に茶道を教えたことで知られ、茶会を通して多くの大名らと交わったといいます。また、作事奉行として建築や造園にも携わりました。
~室町時代~
庶民の茶
室町時代から戦国時代にかけて、能楽と共に狂言が発展します。日常の庶民的な生活を題材とする能には、茶も登場しました。茶といっても抹茶に限らず、天日干しの番茶といった庶民の日常の茶を指します。他の文献を紐解くと、庶民向けの茶は煮出して飲む煎じた番茶であると推定されます。庶民の間でも茶が流行していたとはいえ、その飲み方は上流階級と異なっていたようです。