d:matcha Kyoto newsletter - September 2025

こんにちは!いつもd:matchaをご利用頂き、ありがとうございます。d:matchaニュースレターチームより畑や新開発の商品、スタッフの近況をご紹介していきます。どうぞ、ご愛読ください。


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ヴィーガンスイーツ (Sora N.)

こんにちは!9月に入りましたがまだ暑い日が続いていますね。8月は主に菓子製造が多く、上旬は菓子製造、下旬は畑を主にやっていました。久しぶりの肥料撒きだったので大変でしたが前回よりも楽に作業できていたので体の成長を感じました。           最近、ツアーで使うヴィーガンスイーツ開発の話が出ました。D-matchaは海外からのお客様が大多数なので様々な食の好みや文化があります。その中でもヴィーガンのお客様は少なくなく、やはり食べられるものが限られてしまいます。そのような方達のためにデザートとして出せるヴィーガンスイーツを作って欲しいと頼まれました。私自身ヴィーガンスイーツについてあまり詳しくなく、自分でもちゃんと調べたことがありません。これから開発してしていくにあたって知識を深めるために改めて調べてみたのでご紹介します。        まずヴィーガンスイーツとは、肉や魚だけでなく、乳製品や卵などの動物性食品を一切使用せずに作られたデザートのことです。牛乳の代わりに豆乳、アーモンドミルク、ココナッツミルク、オートミルクなどの植物性ミルクが使われ、バターの代わりにはココナッツオイルやシードオイル、大豆油などが、卵の代わりにはバナナ、リンゴソース、豆腐、などが用いられます。甘味料としては、メープルシロップ、アガベシロップ、甜菜糖、などが使われています。白砂糖はサトウキビなどを原料としますが不純物を取り除く過程で骨炭(牛や豚などの動物の骨を焼いた物)を使用していることがあるためヴィーガンではないです。全ての白砂糖が骨炭で精製されているわけではなく、石灰を使う方法もあります。この方法で作られた白砂糖はヴィーガンでも問題ないとされています。                   また植物由来の成分が多く含まれるため、一般的なスイーツに比べて低カロリー、低脂質で、ビタミンやミネラルが豊富に含まれており、健康的であると言われています。さらに環境においても動物性の食品は生産が環境に与える負担が大きいのに対し、植物性の食品は負担が少ないとされているそうです。     
ヴィーガンスイーツには牛乳などの乳製品は使えないためその代わり豆乳がその穴を埋める大事な役割をします。スイーツ作りにおいて、卵は結合剤や膨張剤、乳化剤として重要な役割を果たしますが、豆乳はこれらの役割の一部となり、生地をしっとりさせたり、なめらかにする効果も期待できます。D-matchaにもいくつかヴィーガンの商品がありますがほとんどに豆乳が使われています。豆乳は普通のスイーツにも使われたり、日常的に飲んだりとメジャーな材料でもありながら様々な人の健康や環境に適している万能な食材であると思います。                   
最後にヴィーガンの方もその他の方もぜひ一度D-matchaのヴィーガン商品食べてみてください。私はD-matchaの商品でヴィーガンクッキーが好きなのでオススメです!



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スイートライド:朝宮茶との出会い(S. Mahdaria)

田舎に住んでいると交通手段が限られていて、町や近くの村を自由に探検するのは少し難しく感じます。昨年の年末、ダイキが私たちのB&B「Tea Moon」に宿泊するお客様のために自転車を2台購入してくれました。でも最初は、自転車が自分には大きすぎるように見えて、乗るのをためらっていました。

そんな私を励まし、和束や信楽を一緒に走るきっかけを作ってくれたのが、チェコ出身の仲間・ヴィーテクです。彼と一緒に走る時間は、単調だった日常に大きな喜びを与えてくれました。本当に感謝しています。

先週は、信楽まで自転車で行き、朝宮茶とモチシューを味わってきました。朝宮茶は滋賀県信楽町の朝宮地域で栽培される高級な日本茶で、日本五大銘茶の一つとして知られています。最澄が持ち帰った茶の種から始まる1200年の歴史を持ち、豊かな香りと滑らかな口当たり、爽やかな旨味が特徴です。標高が高く霧に包まれる環境で育つため、苦味と甘味の絶妙なバランスを生み出します。かつては朝廷への献上茶とされ、俳聖・芭蕉の俳句にも詠まれるほど名高いお茶です。

ヴィーテクがそのお茶をとても気に入ってくれたのが嬉しかったです。彼は「蜂蜜のような味がする」と言ってくれました。そして、彼の笑顔もまるで蜂蜜のように甘く感じました(笑)。私たちは冗談を言い合ったり、よくからかい合ったりするくらい仲が良いのです。

もう一つのハイライトはモチパフでした。これまで食べた中で一番美味しい餅だと思います!やわらかくもちもちした食感で、中には程よい甘さの小豆あんが入り、外側はクロワッサンのようなサクサクの生地で包まれています。焼きたては外はカリッ、中はとろけるようなもちが一体となり、まさに至福の味でした。

ぜひまたこの旅をしたいと思います。でも来月にはヴィーテクがもうここにいないと思うと、同じ旅でもきっと違う味わいになるのだろうと感じます。


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碾茶と向き合って (Seiya H.)

自分のd:matchaの仕事は大半、お茶の小分け袋詰め、ツアーで煎茶と抹茶の説明、宿のお客様の夕食接客、チョコレート作り、製麺、畑が主ですが、先月下旬から新しい仕事も始めました。

先月からボールミルで碾茶を粉砕して抹茶にする仕事を開始しました。工場では畑で収穫された茶葉は碾茶になります。その状態の碾茶を30キロほど毎回ボールミルに入れています。

碾茶のタテ(詰められている大型な袋)には

▪️収穫日

▪️畑の品種と場所

▪️有機栽培かどうか

これらの情報が記載されており、それに応じて

必要な碾茶を挽いていきます。


粉砕する時間は2日程かけて抹茶にして行きます。

ボールミルを行う日の流れとしては

▪️2日前に粉砕開始した碾茶をボールミルから取り出す。

▪️取り出した抹茶を奮って袋に小分け

▪️袋に抹茶のタテに記された情報と共に、

抹茶がボールミルに入っていた日時と

抹茶の種類(無農薬やぶきた、ラテグレード等)

を記載していきます。


碾茶を新しく開ける度に、収穫した時期(春か夏)、品種によって碾茶の色も香りも全然異なります。

 






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和束町のお茶栽培の歴史 (Misato T.)


お茶が初めて日本に持ち込まれたのは平安時代の遣唐使の時代です。日本の天台宗の開祖である最澄は805年に遣唐使として比叡山の日吉大社に唐から持ち帰ったお茶の種を植えました。翌年の806年には、空海が唐から茶の種・石臼を持ち帰り、比叡山に植えたとされています。これらのお茶は、僧侶や貴族の間で薬用や儀式に用いられましたが、一般には普及せず、遣唐使が廃止されると次第に衰退していきました。


日本に茶の栽培を普及させたのは、京都・栂尾の明恵上人です。鎌倉時代初期(12世紀末頃)に臨済宗の開祖である栄西禅師から茶の種を譲り受けました。明恵上人は、茶が修行の妨げになる眠気を覚ます効果等さまざまな効果が得られるとして、僧侶達に熱心に茶を広めました。また、茶の栽培が適した京都・栂尾の高山寺で日本初の茶園を開き、その栽培方法を確立したのです。

↑明恵上人(栂尾・高山寺所蔵)

京都の栂尾は、お茶の栽培に適した気候や地形が揃っており、高品質で美味しいお茶ができました。栂尾で栽培されたお茶は栂尾茶とよばれ、その品質の高さから栂尾茶を「本茶」、栂尾以外のお茶は「非茶」とよばれていたほど。

鎌倉時代には闘茶(とうちゃ)が上流階級の間で流行りました。闘茶は茶歌舞伎(ちゃかぶき)ともよばれ、さまざまなお茶を点てて大人数で飲み、それぞれお茶の産地や種類を当てる遊びです。本茶である栂尾茶か、それ以外の非茶かを飲んで当てる内容だったようです。


和束町のお茶はどう広まったか

和束町のお隣・加茂町の海住山寺にいた高僧「慈心上人」は、鎌倉時代(おそらく12世紀後わり~13世紀前半頃)に京都・栂尾の明恵上人より茶の種を譲り受け、それを鷲峯山の麓で栽培しました。慈心上人の出身は明恵上人の後援者である藤原家であり、出家前から明恵上人との関係性が深かったと推察されます。

明恵上人から最初にもらいうけたのは数粒の茶の種でしたが、それがこの和束町・南山城村等へと普及していったと考えられます。最初は主に寺の修業僧のための自家用の用途で用いられていました。

天正年間(1573-79)、和束町原山地区に茶の苗57aが植えられたとの記録があり、この時代には和束町で自家用というより商品作物として茶が栽培される兆しが見られます。

和束町湯船地区での茶の栽培

湯船地区における茶の栽培の始まりに関する正式な文書はありませんが、1711年の茶畑の売買証文を見ると、このころには茶畑が湯船地区で行われていたことが伺えます。

この証文では、売主は湯船地区小杉村の新三郎さんで、買主は湯船地区上ノ村の三郎兵衛さんです。大きな茶畑ではないようですが、このような小規模な売買においても、きっちりと保証人付きの売買契約書が作成されていました。
湯船地区の大智寺の記録にも、1708年に湯船で新田を開いた時、周辺で煎茶栽培が行われていた記録があります。
少なくとも1600年代にはd:matchaが位置するこの湯船地区で茶の栽培がある程度普及していたと考えて間違いないでしょう。この時代は碾茶ではなくほとんど煎茶の栽培だったと考えられます。

和束と江戸のお茶取引 

1849年の江戸とのお茶取引を記録した帳簿を見ると、和束町釜塚の浅右衛門という人は集めたお茶を江戸の商人山本嘉兵衛らに送り、その代金を受け取って、和束郷内の茶商達に渡すという和束と江戸をつなぐ役割を担っていました。取引額は年間総額で約2千両(現在でいうと2000万円くらいでしょうか)に及び、多額のお茶とお金が和束と江戸でやり取りされていたことが伺えます。
帳簿に押されたハンコには「城州宇治和束」という文字が見られ、19世紀半ばには宇治という名称が和束のお茶にも使われていました。

↑江戸との商売を記録した帳簿

湯船地区には伝統的な煎茶工場が残っています。大正時代前期(1900年代前半)には機械製茶が普及しますが、機械に移行する前の手揉み時代の茶工場が多く残されています。


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二番茶後の茶園の様子 (Hiroki A.)

二番茶が収穫された後の茶園の管理はどのように行われてその時の茶園はどんな様子なのか説明していきます。
二番茶が収穫された後の管理は全て来年の一番茶のための準備になります。二番茶が収穫された後、収穫されなかった新芽を除去しやや乱雑になった茶園を整えるために茶園の表面を刈り込む夏整枝が行われ、来年の一番茶の新芽の土台をとなる枝作りがスタートします。もしこの作業がたければ秋芽が均等に伸びず秋整枝の際、均等な葉層を作ることが困難になります。この時に伸びてくる枝を来年の新芽と区別するため前年枝や母枝と呼ばれることがありますが、ここでは母枝と読んでおきます。この母枝をいかに健全に成育されることができるかどうかで一番茶の品質に大きく影響します。


母枝は温暖な夏から秋にかけて大きく成長しますが、10月ごろになると成長が緩慢化し霜が降りる頃には完全に成長が止まります。夏整枝が遅れたりすると、母枝の成長は出遅れることとなり、十分に成熟した状態で秋整枝が出来なくなるので、二番茶が終わった後も茶農家はしばらく忙しいです。
母枝が十分に成長すると、秋整枝が行われます。この時、夏整枝が行われた摘採面より5cmから7cmほどの葉層を確保することが重要となります。ここで十分な葉層確保できなければ、一番茶の伸びずが悪くなり、収量や品質が低下します。生育が悪く葉層を確保できない茶園ではあえて秋に整枝せず、光合成を行うための葉を春まで残し春に整枝を行う春整枝を行うことがあります。


春になると、秋整枝や春整枝などで整えられた母枝から力強い一番茶が伸びてきます。これらの整枝によって綺麗に整えられた茶園の表層とそこから伸びた一番茶の境目が一番茶の摘採面となり、美味しい一番茶のみが収穫されます。


二番茶後に整枝された様子。


秋にかけて成長する母枝



秋整枝によって整えられた茶園の様子


春に母枝から伸びる一番茶の様子


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鴨ラーメン(Vitek F.)

ちょうど鴨ラーメンを作り終えたところでした。とても美味しく仕上がり、食事の満足感に浸っていたのですが、その時に抱いていた感情はそれだけではありませんでした。そこには悲しさも混じっていました。その理由は、このラーメンに使った鴨の出自にあります。

死は人生の一部です。おそらく誰もがそれを知っています。しかし、私たちは人間と動物とでその受け止め方を大きく異にします。ましてや、その動物を自分たちで世話し、成長を見守ってきた場合にはなおさらです。ここで話している鴨の雛もそうでした。今年の5月、私たちは10羽の鴨の雛を田んぼに放ちました。彼らは毎日、稲を雑草や害虫から守るために働いてくれました。夜になると、私たちは彼らを小屋に入れて安全を確保しました。けれども、さまざまな対策をしていたにもかかわらず、日中に6羽を失ってしまいました。主な原因は大きな日本のカラスです。

元の10羽から残ったのは4羽でした。この鴨は飛ぶことができない特別な種類で、野生では長く生き延びることはできません。そのため、この品種は毎年田んぼに導入されます。そして農場の誰もが、収穫の時期が来れば残った鴨たちの運命がどうなるかを理解していました。

ついに、その小さな素晴らしい働き手たちに別れを告げる日が訪れました。それは悲しい出来事でした。しかし同時に、それは一粒一粒の米をこれまで以上に大切に思うことにつながりました。鴨のおかげで私たちは米を楽しむことができたのですから。そして、そのラーメンを食べながら私たち全員が感じた感謝の気持ちは言葉にできないほど大きなものでした。まるで自然そのものが、私たちが世話をしたものを糧として受け取ることを許してくれたかのように感じられたのです。こうして5月に始まった循環は、この瞬間にひとつの完成を迎えました。