tea history -9- 宇治茶の歴史
お茶といえば宇治茶。
ところで、宇治茶とはどのようなお茶か知っていますか?
今回は、宇治茶の歴史を紐解いていきます。
~宇治茶とは〜
日本3大銘茶のひとつ、宇治茶は、日本を代表する緑茶として知られています。
突然ですが、宇治茶とはどのようなお茶を指すのでしょうか?
京都茶業協会によれば、
宇治茶は、歴史・文化・地理・気象等総合的な見地に鑑み、宇治茶として、ともに発展してきた当該産地である京都・奈良・滋賀・三重の四府県産茶で、京都府内業者が府内で仕上加工したものである。
ただし、京都府産を優先するものとする。
とされています。(*1)
京都府内の他の市町村と近隣三県産の茶葉も含まれるのです。
ただし、宇治茶は宇治市、宇治田原町、和束町、山城をはじめとする京都府南部を中心に発展してきました。
それでは、宇治茶の歴史を見ていきます。
〜宇治茶の歴史〜
[鎌倉時代]
宇治で茶が栽培されるようになったのは、日本茶の始まりとほぼ同時期です。
1191年に中国・宋から帰国した栄西は、
持ち帰ったお茶の種を京都栂尾・高山寺の明恵上人に贈りました。
明恵上人は、茶の栽培に適した場所に茶の種を植え、茶の木を育てるよう栄西から依頼されたのです。
お茶がよく育つ場所として、
日の寒暖差が大きく霧が出やすい、水はけの良い場所が選ばれました。
その一つが宇治で、現在の京都府宇治市にある萬福寺の山門前に「駒蹄影園碑」が残っています。
明恵上人がお茶の種の蒔き方を伝え、初めて宇治にお茶がもたらされた逸話を伝えています。
[室町時代]
室町時代に入ると、明恵上人が宇治に伝えたお茶は日本中で評価されるようになっていきます。
義満は、宇治に 七名園 と呼ばれる将軍家や管領家専属の特別な茶園を新たに開かせました。
七名園は宇文字園、川下園、祝園、森園、琵琶園、奥の山園、朝日園の七ヵ所の茶園から成り、いずれも宇治に作られました。
森、祝、宇文字、川下、奥ノ山、朝日につづく琵琶とこそ知れ
と和歌にも詠まれています。
これらの茶園では宇治の茶師たちが最高級のお茶を作ろうと日々努力を重ね、
将軍家に毎年お茶が納められたのです。
--茶師の悩みのたね--
茶の栽培に適した宇治は品質の高いお茶の産地として名をはせていましたが、
あることが茶師たちを悩ませていました。
夜間の気温が低いと霜が降り、
せっかく育てた新芽が傷んでしまうのです。
そこで、新芽に霜がつかないようにムシロをかける栽培方法が編み出されました。
ムシロで茶の木を覆うことで、霜から新芽を守ることができるようになります。
この栽培方法は 覆下栽培 と呼ばれ、栽培量を向上させました。
また、鮮やかな色でうまみの強い茶になり、宇治茶の味をいっそう高めました。
当時、栂尾の茶が「本茶」とされていましたが、
覆下栽培の発明によって、宇治茶が栂尾茶に代わって「本茶」と呼ばれるようになっていきました。
[安土桃山時代]
安土桃山時代に入ると、織田信長や豊臣秀吉といった、天下に名をはせた人物たちが茶の湯を気に入りました。
秀吉は、宇治以外のものが扱う茶を宇治茶の名で売ることを禁じます。
これにより、宇治のお茶が他産地の茶と区別され、
宇治茶が全国に知られるようになったとされます。
利休は、宇治の茶を高く評価して、さらなる品質向上を求めました。
茶の栽培だけでなく、茶のブレンドや壺への詰め方も指導したと言われています。
利休が完成した茶の湯は、遊戯の側面が強かった室町時代の茶文化とは異なります。
ただ茶を楽しむだけでなく、料理も用意してお客様をもてなしました。
茶の湯が行われた茶室は、調度品や道具のしつらえにも気が配られていました。
千利休が唯一残したとされる茶室、妙喜庵待庵は、今も京都府大山崎町に残されています。
こうして、宇治茶は天下茶と呼ばれるまでになりました。
[江戸時代]
江戸時代に入ってからも、
宇治茶は朝廷や徳川幕府に献上される特別なお茶でありつづけました。
徳川幕府は交通の要衝を幕府の直轄地に指定し、強固な支配体制を築きます。
宇治は、陸上・水上交通の要衝であることに加え、
茶の産地であることから直轄地となりました。
中でも、和束のお茶は京都御所に納められていました。
同時に、御茶師という役職が設けられました。
以前から、将軍家御用達の茶師自らが御茶師と名乗っていました。
幕府は、将軍家の御用を勤める家を御茶師と呼び、御茶師を制度化したのです。
御茶師は自家の相続や将軍家の交替の際、
誓詞や家の由来や系譜などを記した書類を提出して、
幕府の認可を得ることが定められました。
さらに、御物御茶師・御袋御茶師・御通御茶師の三階級を設けました。
それぞれ、朝廷および将軍家直用の茶の調達、将軍が東照宮へ献上する茶を袋詰めして、
将軍家が一般に用いる茶の納入に当たりました。
御茶師の人数は増減がありますが、
18 世紀頃の記録では御物御茶師が11家、御袋御茶師が 9 家、御通御茶師 13 家とされています。
御物御茶師・御袋御茶師・御通御茶師、
それぞれの間で組織された仲間のことを宇治茶師三仲ケ間と呼びます。
茶師三仲ケ間は、宇治のお茶を江戸の将軍に納める行列の際に茶の調達を行い、
公正に調達が行われるよう相互に監視する役割も担っていました。
1738年には、永谷宗円が今の緑茶にあたる宇治製法を編み出し、
宇治茶は庶民にも広がりをみせました。
宇治茶師の各家は、諸国大名のお抱え茶師としても茶の調達を行っていました。
大名から米を支給されたり、特権を与えらたりするなど、
茶師は幕府と取引がなくても比較的豊かな生活を送ることができたのです。
当時から、お茶が社会的に重要な役割を果たしていたことがうかがえます。
[明治時代]
明治時代に入り、従来の顧客であった幕府、諸大名が失墜すると、茶業を辞める家が相次ぎ、宇治茶師三仲ケ間は解体します。
一方、長年続いた鎖国体制が終わり、横浜港や神戸港が開港されました。
開国後は、明治新政府が殖産興業を打ち出します。
中でも、茶の輸出は政府によって強く奨励され、
宇治茶も海外に向けて輸出されるようになりました。
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恵まれた条件の中でも、試行錯誤が繰り返されてきた宇治茶。
次回は、そんな宇治茶が美味しい理由を紹介します。