tea history -2- 日本茶の歴史:江戸時代のお茶文化
江戸文化の茶文化と栽培
前回は、茶の湯の誕生と庶民の茶を、南北朝時代から戦国時代にかけて見てきました。
今回は、江戸時代以降の茶の広がりを解説していきます。
〜江戸時代〜
初めに江戸時代の茶文化の流れを大まかに説明します。
江戸時代に入ると城下町が発展するに従って、都市で暮らす人が増加しました。
すると城下町ごとに茶の需要が生まれます。
特に、江戸は茶の大消費地でした。
当時の政治の中心で、多くの武士や様々な職種の人々が全国から移住してきました。
江戸での需要に応えて、各地に茶産地ができ、全国的な流通網も発展しました。
関東周辺の産地だけでなく駿河、遠州、さらには宇治からも茶が集まりました。
広い地域から江戸に集まってきた茶は、茶問屋を通じて庶民に販売されました。
また、主要な城下町には、茶町という地名が見られるようになります。
茶町 には、2つの意味があるとされます。
①茶を一般に商う商店がある地区
②茶問屋が集中している地区
明治時代以降、廃藩置県を始めとする地区再編によって、茶町は地名から姿を消してしまいました。
現在では、奈良、鳥取、島根、静岡県に、茶町という地名が残っています。
江戸時代における茶栽培の拡大
~商品作物として、東北・北陸地方にまで栽培地域が拡大~
江戸時代中頃には東北、北陸地方まで茶栽培が拡大します。
この茶栽培は商品作物として、すなわち市場で売買して換金するために、栽培されました。
近代的な農業の発達以前の農業の書物、農書で茶の栽培が推奨されたことも、茶の栽培を後押ししました。
関東以西では茶を自宅の周辺で栽培し、自家製の茶を利用することができました。
しかし、東北地方などでは、茶が自生することができませんでした。
茶が栽培できない地域では、茶を飲む際には、商品として茶を購入する必要がありました。
そのため、近代になっても、食事の際に茶ではなく白湯を飲むという例が多く見られます。
江戸時代後半になると、茶の商品としての重要性が高まっていき、これまで茶栽培が行われていなかった北陸や東北地方でも、小規模な茶産地が形成されるようになりました。
現在、新潟県の村上市と茨城県の大子町が経済的栽培の北限の茶と言われていますが、
さらに北に位置する秋田県能代市の檜山でも茶は作られていました。
檜山での製法からは、初期の宇治製法の名残を見ることができます。
また、太平洋側でも茶の栽培が広がっていきます。
海に近く比較的温暖な岩手県陸前高田市では、宇治から茶種が導入されました。
これが現在の「気紐茶」の始まりです。
こうした栽培の広がりを受けて、数多く出版された農書において、栽培から製茶に
いたる解説がなされるようになりました。
元禄時代における日本の農業水準を示したとされる農書に、宮崎安貞の『農業全書』があります。
文書中には、抹茶、番茶など何種類もの製茶法が記されています。
他にも、大蔵永吊の『広益国産考』(1859)には、各種の茶の製法が書かれています。
地方ごとに篤農家(熱心で研究的な農業者)が著した農書においても、茶は重要産品として扱われています。
江戸時代の庶民の生活とお茶
~生活にお茶が深く浸透。番茶や代用茶が愛される~
当時の庶民は、茶問屋を通じて販売された茶、あるいは自家製の茶を飲んでいました。
同時に、各地では代用茶とも呼ばれる、茶のような飲み物が飲まれていました。
代用茶とは、カワラケツメイや藤の葉っぱを茶と同じように乾燥させて煮出して飲むものです。
代用茶は、必ずしも茶が入手できないために代わりに飲んだとは限りませんでした。
本来の茶の代用にとどまらず、茶とは異なった味わいを求める人にも飲まれました。
「茶」という言葉は、抹茶や煎茶など茶そのものだけでなく、嗜好飲料としての意味も持つと言えそうです。
当時、庶民の生活はどのようなものだったのでしょうか。
江戸幕府が出した茶に関する法令の中で最も有名なのが、慶安の御触書です。この法令では、農民に対して贅沢を禁じ、農業に励むことを求めました。
それだけではなく、酒や茶を買うことを禁じ、夫婦共に農業や機織りに精を出すよう書かれています。
法令の一節に、
「みめかたちよき女房なりとも夫のことをおろかに存、
大茶をのみ物まいり遊山すきする女房を離別すべし」
とあります。
大茶とは、女性たちが寄り集まって茶を飲みながら、たわいもない会話をすることです。
慶安の御触書は農民に対する禁令なので、ここでの茶は宇治などで作られた抹茶ではなく、ありきたりの番茶を指すと考えられます。
茶が庶民まで普及していることに加え、
茶が女性の集まりにおいて重要な役割を果たしていたことが分かります。
茶は文学にも登場します。
松尾芭蕉の一句を紹介します。東海道島田宿(静岡県島田市)で大井川の川留めにあったときに詠んだものです。
駿河路や花橘も茶の匂ひ
「香りの強い花橘さえ、茶産地である駿河国では茶の匂いにかわってしまうほどだ」という意味です。
茶が身近な言葉になるにつれて、茶に関わる様々な諺が生まれました。
また、川柳などにも茶を織り込んだ句が数多く作られるようになりました。
今でも、「鬼も十八、番茶も出花」とか「茶腹もいっとき」「お茶をひく」「茶にする」などが日常的に使われています。
他にも、茶は儀礼にも用いられます。
各地で、冠婚葬祭など儀礼の場で茶を贈答する風習が見られます。
九州、新潟・福島両県の一部では、結納や婚礼に際して婿方から嫁方に茶を贈る習慣があります。
茶はしっかり根を張り、植え替えしにくいため、一旦嫁いだら末永くその家に居つくようにという意味だとされます。
しかし、婚姻の時に茶を贈答する民俗は、中国や東南アジアの一部にも見られるため、他にも理由がありそうです。
また葬儀にも茶は深く関わっていて、仏前に供える茶湯や、棺に茶葉を入れる風習などがあります。
このように、庶民の日常生活と茶は深く結びついています。
コラム:文政の茶一件
~流通を独占した茶問屋をめぐる訴訟~
城下町が発展するに従って、都市で暮らす人が増加すると、城下町ごとに茶の需要が生まれます。
その需要に応えて各地に茶産地ができ、全国的な流通網も発展しました。
また、庶民の茶の消費量が増えるにつれて、江戸では茶問屋の組合が結成されました。
江戸の茶問屋は、江戸幕府に運上金(税の一種)を納める代わりに流通を独占する特権を認められていました。
独占権を利用して、地方で集荷する茶問屋と結び付き、生産者の茶を安く買い叩くようになりました。
これに対して、茶産地は自由な取引を望んでいたため、軋轢を生むこととなります。
有名な訴訟に、文政の茶一件があります。
文政7年(1824)、遠江・駿河(現在の静岡県)の113ヵ村の生産者たちは、
江戸の問屋と直結していた駿府(現在の静岡市)などの茶問屋を横暴であるとして幕府に訴えました。
静岡だけでなく、関西の綿作地帯でも大規模な訴訟が起こされています。
これは、茶が生活に密着した商品として、
江戸時代の流通構造の一環に組み込まれてきたことを示しています。
この時期、江戸日本橋の茶商である山本屋が大きな役割を果たしました。
文政茶一件などの事態を避けるためには、茶商自ら流通の主導権を握る必要があると考えたと言われています。
地方の篤農家に技術指導を行うと同時に、各地に宇治製法を導入しました。
こうして、進んで高級茶の生産を広めていったのです。